第3回 車道
『もう一回、もう一回って君の名前を呼ぼうとして、
嘘みたいに遠ざかってゆくけれど・・・。』
「車道」に用がある人はどんな人だろうか。
裁縫をする人、教育に携わる人、音楽に携わる人・・・。
それくらいしか用事が思い浮かばない場所であるが、この3つに携わる人には欠かせない大切な場所だと思う。
まず「車道」と言われ、思い浮かぶのは『大塚屋』だと思う。
大塚屋は服地・インテリア布地が約4万種取り揃えられ、布地なら何でも手に入れられる布地の大型専門店である。
私の母も幼稚園児だった私の上履き入れや、給食袋などをセーラームーンや、おジャ魔女どれみの柄の布地をここ大塚屋で購入し、よく作ってくれていた。
小学生の時、学芸会で孫悟空の「羅刹女」の役をもらった時も、ツルツルのピンクの布でワンピースを作り、担任から「誰が主役か分からないね」とチクリと言われた経験がある。
こんな経験が多分名古屋人には一つや二つ誰しもあって、何となく誰もが「布といえば大塚屋」という暗黙の常識が敷かれているのではないかと思う。
大塚屋の敷地内に異常に安いたこ焼き屋の「天野屋」がある。
私は「10個で450円ならまぁ食べたい」程度なのだが、母は「美味しいたこ焼きといえば天野屋」と言っている。
何か思い入れがあるのだろう。
思い出補正は味覚を狂わすから。
私の「思い出補正飯」も実は車道にある。
『げんこつラーメン』だ。
ここのラーメンは14歳の頃から元気を出したい時に食べていた。
当時、中学生の私にはスガキヤではないラーメンはご馳走だったんだ。
一人で制服のまま入って、熱々のラーメンを黙々と食べることは結構な贅沢だった。
何となく今でも年に1回くらいは訪れている。
そして、「あぁ、あっちにしておけば良かった」といろいろ知った今では少しだけ後悔する。
そして車道は「教育」というまた別の顔を持っている。
私は中高大一貫の女子校に通っていたが、その準備を車道で3年間みっちりした。
現在、車道には
・est
・京進
・サンライズ
・野田塾
の中学受験用の塾があるらしい。
私が通っていたのは「野田塾」だった。
たくさん泣かされた。
私の志望校は、現在では卒業した女子大の附属の中学だからそんなに勉強をしなくても良かったのだけれど、当時クラスで1番勉強が出来ないと自負していた小学4年の私は、「クラス分け」という単語にビビりにビビり、塾が開く時間から閉まる時間まで週6日通い倒した。
「人見知り」という自分の性格をガン無視して、分からない問題をチューターにひたすら質問して潰しにかかり、自分の想像を遥かに絶する好成績を叩き出してしまった。
どれくらい好成績かというと、麻布中学、慶應中等部、に進学した友人達と同じクラスに属することになるくらい好成績だった。
そんなクラスに属して、感じたことがある。
賢いクラスは「静か」だった。
勉強していても、みんなが勉強しているから、からかわれたりしない。
そんなクラスが物凄く居心地が良かったのだ。
どんな服を着て、どんな鞄を持って、どんな文具を使っているのかなんて話題を誰も口にしないし、気にも留めない。
親に買い与えられたものを身にまとい、目の前の「数字」にだけ固執する。
そんな強い空間に一度足を踏み入れてしまうと、もう離れたくなくなってしまった。
お喋りをしていた子達は、皆下のクラスにいた。
寂しいフリをしていたけれど、内心「誰がそっちに行ってやるもんか」とろくに会話もしたことのない賢いクラスメイトに固執した。
彼らに置いてけぼりにされないよう、必死に勉強した。
「一人のように見せかけて、実は一人じゃない」野田塾の環境が私は大好きで仕方なかった。
今でも当時のクラスメイトとは連絡を取り合い、会ったりする。
本当に大切で大切で仕方ない友人達である。
前回記事「大須観音編」の「大須スケートリンク」に行った友人らは紛れもなく彼らだ。
そして、野田塾で1番好きだったのは「チューター」の充実ぶりだった。
毎日、日替わりで4~5人のチューターがいる。
チューターが充実しているから講師が授業で質問対応してくれなくても、安心して分からない問題を山積みにして勉強を前に、前に進められた。
「チューターが来てから質問したらいい」。分からない問題を一旦置き去りにする言い訳として最高だった。後からお気に入りのチューターに質問したら良かった。
今の野田塾がどんな体制で、どんな結果を残しているかはこちらで確認できるから、お子様の塾選びに迷われている読者の方は、見てほしい。
私はあの塾に通えて本当に良かったと思う。
たくさんの素晴らしい出会いを野田塾が作ってくれた。
当時の友人達は私が辿ることの出来ない道に進み、話を聞かせてくれ、人生の選択肢の多さを、可能性を教えてくれる。
また、当時のチューターもまだ私のチューターとして時々アドバイスをくれる。
バカみたいに優秀で、バカみたいに真っ直ぐないい人達との出会いは野田塾が繋いでくれた。
最高の人生の出発を切れる塾だと私は思う。
最後に車道は、バンドマンにとっても、大切な場所であった。
2019.12.29に様々なバンドに惜しまれながら「車道LINK」が「車道3STAR」が幕を下ろしたのだった。
私も高校生の時に何度かこの箱には足を運んだ。
バンドが好きな所謂「サブカル系女子」だったのだ。
17歳で、人生の帰路に立たされ、どんな道に進んだら良いのか分からなくなって、苦しかった私の光となって夢中にさせてくれたバンドがある。
もう解散しているけれど。
この車道LINKの最期の日、駆けつけ、その終末を彩った『RED BOOTS FACTORY』。
通称「赤ファク」。MI JAPANの卒業生で結成され、楽曲のクオリティ、個々の演奏力の高さから「伝説」と呼ばれているバンドだ。
私も解散後に他のバンドから「赤ファクのCD持ってたりしない?」と何度か借りられたことがある。
赤ファクと言えば、「colors」「七夕の夜に」だと思うのだけれど、残念ながらインターネット上にアップされていなかったので、アップされている3曲のうち1番映像のクオリティが高い「脳内ハッカー」をここでは紹介しておく。
素敵なバンドだった。
本当にカッコよかった。
解散したのが残念だ。
でも、それを思っているのは私だけじゃないから、車道LINKの閉店日に呼ばれ、当時のファンもたくさん駆けつけた。
そして、あの頃よりメンバーもファンも老けて、「夢に向かって真っ直ぐキラキラ」だけじゃなくて、「あぁ。真っ直ぐだったね。沢山悩んだよね。」と会場全体があの頃の自分と会っているかのような懐かしさで溢れた。
みんな確実に大人になっていること、あの頃の弾けるような若い日々への愛おしさとこの日の赤ファクは出会わせてくれた。
赤ファクは度々復活するけど、みんな本当は一夜限りではなくちゃんと復活して、活動して、売れて欲しいなと思っている。
それだけ期待されていたバンドだし、愛されている。
車道LINKの最期と、赤ファクの最期が同じにならなければいいなと切に思う。
そんな愛されている赤ファクは「名古屋の音楽シーンの盛り上がり」を願っている。
現在、勢いのあったバンドが解散や活動休止を次々に発表し、音楽関係者は皆寂しく思っているのだ。
だから赤ファクは、車道LINKに感謝を伝える為だけじゃなく、名古屋の音楽シーンがまた盛り上がることを願って、そこに力を添えられないかと想いを込めて復活してくれた。
けれど、それはなにも赤ファクだけじゃない。
Bob is Sickや、その他出演したバンド、そしてこの日自分達のライブはないけれど駆けつけたバンド関係者全員が思っていることだと思う。
この日、寂しさも相まってか、会場にいるだけでそんな気持ちがより一層強く感じられた。
『もう一回、もう一回って君の名前を呼ぼうとして
嘘みたいに遠ざかってゆくけれど・・・。』
車道に来ると、私はいろんな「あの頃の私」に近付けるんだ。
さあ、明日もこの街で息をしよう。
この記事を書いてくれたのは?
手頃な華子さん
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